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2013年冬解体される

駅舎の絵は近隣の高岡工芸高校デザイン科の生徒によって描かれた。 2009年8月からの新デザイン。

駅舎の絵は近隣の高岡工芸高校デザイン科の生徒によって描かれた。 2009年8月からの新デザイン。

2009年8月2日に廃止された

2009年8月2日に廃止された

瑞龍寺のように頻繁に名前を目にしないけれども、調べてみるといろんな由緒のある不思議なお寺。

前田利長が高岡城を築城した際に、風水的に重要とみたこの場所に守山にあった極楽寺を移したという。

お寺とは言うものの、お稲荷さんも祀られているし、熊野権現も祀られている。御車山祭りで博労町にすべての御車山が集結するのは、この熊野権現に挨拶をするためだということである。それだけならまだ普通なのだけれども、境内には隠れキリシタンの信仰対象と言われるキリスト像らしきものが彫られた織部灯篭まである。

高岡城築城時、ここが木町で陸揚げされた資材の中継点だったという。

およそ500年前、利長坊(りちょうぼう)というお坊さんが修行をしたという伝説のある山。山頂に穴を掘って生き埋めとなり、木魚を叩きながら念仏し続けたという。ずっとポンポンという音が鳴り続けたためポンポン山と呼ばれるようになった。

利長坊は「100年後に再び現れてこの地を治める」と言い残して修行に入ったのだが、そのちょうど100年後に名前が同じ漢字である前田利長が高岡を治める事になった。それで利長坊が蘇ったという伝説になったという。

南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子である恒性皇子の御墓。 元弘の変(1331~33)で後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒そうとするが失敗し、後醍醐天皇は隠岐へ流され、恒性皇子はここ越中の二塚に幽閉された。 鎌倉幕府滅亡の直前1333年6月30日に越中守護名越時有によって殺害された。

このあたりに住んでいた宗九郎さんが、高岡城址の北、小竹薮の下に広がる 蛇沢不湖と呼ばれる沼地を開墾した。

その際に殺してしまったであろう蛇を供養するために自分で稲荷社を建てて朝晩お参りを 欠かさなかった。

やがて稲荷社はあわら町全体の信仰を受けるようになり、「へびの宮」、「宗九郎さの宮」と 呼ばれて親しまれるようになった。

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